Vol 4
シリコンバレーで日本の学生教育の第一人者であり、アカデミアとビジネスの間を取り持ち多くの日系企業のメンター役も務める、松尾正人(Marty) Masato Matsuoさんに話を聞きました。
*松尾さんの経歴について教えて下さい。
私は長い間技術・ビジネスの世界にいますし、その間主たる仕事の内容も変わってきたので、私の人生を3つに分けてお話ししたいと思います。
①ポリマー研究者としての最初の10年間
九大で工学部応用化学博士課程1年を修了した後、日本ゼオン株式会社に就職し中央研究所に配属されました。配属された研究室は何でも自由に研究してよいという環境で、「さあ何をしよう」と思った私は、周りの研究者が何を研究しているかを聞いて回る毎日でした。
当時は多くの研究者がプラスチックにゴム粒子を導入して衝撃強度を上げる研究をしており、それで「プラスチックにゴムを入れるとなぜ強度が高くなるのか」と聞いて回ったところ、誰もその答えを持っていなかったのです。
文献にもそのメカニズムの記述は殆どありませんでしたし、それでこの問題を、電子顕微鏡を用いて取り組むことに決めました。
研究方法や研究戦略についても語ることが多くあるのですが、今回は省いて結論だけを申し上げます。
外部から衝撃が与えられると、プラスチックの中に分散しているゴム粒子からクレージングというミクロな分子配向帯が発生し、それがゴム粒子を伝わって急速に広がり外部からの衝撃を緩和するという衝撃強度向上メカニズムを発見。
世界初の発見であることがわかり、大変興奮すると同時に、まさに「何もないところから新しい発見をした」という自信が何物にも代えられまでんでした。
その後、更に「ブロックコポリマーの超規則的構造」の発見にも貢献し、世界的にも名前が知られるようになり、1971年のACS(アメリカ化学会)やIUPAC(国際化学会)から招待されたことも私の人生にとってビッグイベントでした。
この二つの発見の結果、私の人生を変える大事件が2つ起こるのです。一つは研究室の教授から「良い仕事をしたね。論文を出して博士号を取りなさい。」という手紙が来たこと。
もう一つは思いがけないことでしたが、当時世界でトップと言われているアメリカのベルテレフォン研究所
(現Nokia Bell Labs)から研究に来ないか、という招待状が届いたことです。
招待状の内容は、家族分の往復チケットを出すこと、待遇が当時の金額で年額$15,000 とあり、私にとっては破格の待遇でした。日本での給料は月20,000円だったので当時の360円レートで換算すると一気に15倍です(笑)。
同僚から「松尾、本当にアメリカに行くのか?」という心配をよそに私は「はい、喜んで!」と二つ返事で渡米を決心した日を今でも覚えています。
②日本ゼオンの新事業開発の為に奔走した30年間
ベル研究所で2年間の研究生活を送った後、日本ゼオンがニューヨークオフィスを開いたのを契機に私にもそこに加わるように社長から命じられました。
ベル研究所を退職し今度は日本ゼオンの駐在員としてニューヨーク勤務となりました。当時、日本ゼオンには毎年約7万トンのジシクロペンタジエン(DCPD)という副産物ケミカルがあり、その用途が見つからないため燃料としての価値は(10円/Kg)しかなく、社長から「松尾、ほかの仕事はしなくてよいからこの用途を探してこい!」と命じられました。
当時米国でこのケミカルを扱っている10社余りを全て訪問し、考えられるすべての手を打ちましたが、その過程で米国のビジネスマンたちから学ぶことが多くありました。
ただ用途の話をするだけではほとんど相手にしてもらえません。石油化学やその製品に関する自分なりの将来のビジョン、日本の大企業文化、それこそ芸者の話も含めたいろいろな文化の話なども交えながら会話をする事で,彼らが少しずつ自分に(日本に)興味を持ってくるのがわかるのです。
自分に興味を持ってもらえれば、いろいろな情報が入ってきます。もうこちらのものです。このように見識力や日本力をしっかり理解していれば米国でビジネスするチャンスもきっと広がる!と確信をしました。
10年掛かりましたが、そのケミカルの新しい用途の手掛かりを2つ見つける事に成功し、その情報をベースに日本で多くの研究者やビジネスマンが取り組んで、大きな事業に仕上がりました。
これも「全く何もないところから何かを作り出した」ということで自信につながりました。
私は24年間のニューヨーク滞在のあと、急に日本への帰国を命ぜられ、6年間日本ゼオン本社において事業企画開発部長と取締役研究開発本部長を経験します。
この間米国での経験を生かして、心臓関連医療器材分野や鶏のDNAワクチン事業で新製品開発や新事業開発に従事。これらで自分の知識幅が広がったことをうれしく思いました。
③九州大学学生のシリコンバレー研修に注力した15年間
日本ゼオンの役員退任後、1999年から第2回目の米国駐在のチャンスに恵まれ、今回はシリコンバレーを希望しました。
日本ゼオンの駐在員として情報収集に走り回る傍ら、ベイエリアで大学関連オフィスがほとんどない中、九州大学カリフォルニアオフィスを一早く立ち上げ、九大生のシリコンバレー研修を開始。
2002年に遡りますが、当時の梶山九大総長から要請を受けて九大の経営諮問会議委員に任命されたことでこのような母校九大とのご縁ができました。
2004年に国際戦略の一環としてロンドン、ミュンヘン、ソウル、と共にカリフォルニアオフィスを作ることが決まり、私が所長に任命されたのです。
このオフィスで何をするかいろいろ考えた末、2006年から九大生のシリコンバレー研修を開始することとし、1週間の研修と、英語研修を入れた4週間の研修を立ち上げました。
私はそれまで30年間以上日本国外から日本を見続けている中で「なかなか変わらんな~この国は(笑)」というのが正直な感想でしたが、「だったら学生達から変えてみようじゃないか!」と思いつき、まずは母校の九州大学のお手伝いを始めた次第です。
人数は少ないですが私の母校である福岡県立修猷館高校の生徒の研修も並行して行っています。
シリコンバレーで学生たちに何を伝えればよいのか、何を体験してもらえればよいのか、今旬なネタは何なのか、それを伝えることで学生たちにどう変わってほしいのか、日々私も勉強する毎日です。
最初の頃は「グローバルに活躍できる人材」ということを中心にしてカリキュラムを組んできましたが、ここ5,6年はこれに加えて、「イノベーションを起こせる人材」を中心に学生たちにヒントを与え考えさせてきました。また特に最近は、「もっと起業しよう」ということを加えています。
日本国の名目GDPは、高度成長がピークに達した90年代以後の30年間はほとんど成長していません。大企業中心の日本国は、その期待の大企業がイノベーションを起こせないでいるため成長が止まっていることがその原因と考えられますが、それを打破するのは若者によるイノベーションの力しかないのではないかと考えています。

一方、「グローバルに活躍できる人材」については、18代後半~20代前半の学生たちと話をしているうちに、彼らにとって以下の5つの力が必要なことではないかと考えるようになりました。
これを「グローバル人材5原則」として今学生たちに話しています。
1 見識力 あらゆる事象について自ら考え、発言し、見識を持つ力
2 日本力 日本を正しく理解し、日本の良さを外へ発信する力
3 異文化力 異なる価値観を持つ人に同意する必要はないが理解し、交渉できる力
4 T-型人間力 深い専門知識+幅広い知識を持つ力
5 英語力 英語を自由に使う力
また、「イノベーションを起こせる人材」の養成に欠かせないのが「Zero to Oneの思想」、すなわち、まったく何もないゼロの状態から何かを作り出すことに慣れるということです。
考えてみると、日本国は明治維新以来(もしかしたら遣隋使、遣唐使以来?)、すべての産業のスタートは外国に依存してきたと思います。産業だけではなく明治時代の政治・経済・軍隊などのシステムも同様です。
私がかかわってきた石油化学はその典型的な事例です。心配なのはそれがしっかり身についてしまっているので、ゼロから何かを作る姿勢を日本国中が忘れているのではないかということです。
学生たちを見ていても、基本的な姿勢は「何を学べばよいのか」という真剣なまなざしで、自分で考えて何かを作ろうという考えは希薄であるように思います。学生たちと何度も訪問したIBM Almaden Researchに最初のハードディスクが展示してありますが、冷蔵庫くらいの大きさの容器に50㎝径のディスクが50枚入っています。

これで5メガバイトの容量しかないというのにはびっくりしますが、何もないところからそれを作った人の苦労は想像もできないものがあっただろうと思います。そうです。もう外国に頼る時代は終わったのです。
この世の中にない何かを自分で作る出すことが今や絶対に必要なのです。
今、特に工学部の学生を中心にして「Zero to One Project」を進めています。これは「デザイン思考」を使って以下の流れのワークショップをやることです。
学生たちは4、5人のグループを作って会社を作り、会社名やロゴを作り、メンバーの役職を決め、1週間かけて何もないところから新しい製品を開発します。
製品のコストを計算し、売値を決め、世界で何人が使ってくれるかを推定し、最終到達売り上げと利益を計算します。それを最後の日に発表しますが、それに対して参加学生たちは投資家となってコインを投資し、最も投資が大きい順に表彰するというプログラムです。
大学の授業では決して学べない、より実践的なプログラムだと思います。一人でも多くの学生が帰国後もイノベーションマインドを持ち続けてくれると嬉しいなと思っています。
今後とも一人一人の学生をしっかりと育てて日本が世界的なイノベーションの流れに取り残されないように一緒に頑張っていきたいと思います。お陰様で自分の時間が殆どないので、2020年頃にはリタイアしたいな~とは思っておりますが・・・。(笑)
最後になりましたが、私の今の最大の願いは「日本の大企業がもっとイノベーションを起こしてほしい!」 です。
しかし、大企業(大人)が変わらないなら、教育(学生達)から変えてやる!という意気込みです。
ぜひ日本にイノベーションを起こそうという大きな波をシリコンバレーから日本へ向けて送ろうではないですか。
略歴
1969年 九州大学工学部応用化学博士課程1年修了
日本ゼオン(株)入社、中央研究所勤務
1969年 九州大学より博士号を授与される
1969年 米国ベルテレフォン研究所(ニュージャージー)に研究員として招聘され初渡米
1971年 日本ゼオンアメリカ社(ニューヨーク)に移転、22年間新事業開発にかかわる
1993年 日本に帰国し、日本ゼオン本社事業企画開発部長
1995年 日本ゼオン本社取締役研究開発本部長
1999年 日本ゼオン顧問としてシリコンバレーにカリフォルニアオフィス開設
2002年 九州大学経営諮問委員に就任
2004年 九州大学カリフォルニアオフィス所長を命じられる
2008年 Kyushu University CA Office, Inc.を創設、社長に就任、九州大学客員教授
2014年 九州大学海外コーディネーターとして現在に至る
九州大学学生 シリコンバレー研修 累積約1100名
修猷館高校生 シリコンバレー研修 累積約40人
松尾 正人
Dr. Masato(Marty)Matsuo